約伯記より

雲肌麻紙に岩絵の具  150号  2005 年
日展

 

 今から100年前の、中国清朝期の漢訳聖經(聖書)に記された約伯記(ヨブ記)と、明治期の文語訳聖書より着想を得て、描きました。欧州の絵に描かれるヨブは、時に弱々しく無力な老人の姿で表されます。しかし漢訳聖經で描かれた約伯からは、一族を率いるどっしりとした仁者、といった印象を受けます。

 

 烏斯地 有一個人名叫約伯 
 那人完全正直 敬畏上帝 遠離惡事

 
 鳥斯の地に約伯と名くる人あり
 其の人と為完全かつ正しくして
 上帝を畏れ 悪に遠ざかる
      (約伯記 第一章第一節より)

 
 
約伯記は、昔からさまざまに論議をよんでいる書物です。心理学者のユングが書いた『ヨブへの答え』などは有名ですが、誰もがこの物語にさまざまな解釈をつけ、しかし誰もが本当には自身の説明に納得していないようにも思えます。また、ゲーテの『ファウスト』やドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、ミルトンの『失楽園』等の文学や芸術作品にも影響を与えた書物として知られています。

 約伯記が今の形に書かれたのは紀元前六世紀、中国では春秋戦国時代にあたります。物語の背景となっている時代は、そこからはるかに遡った紀元前十八世紀ころの、鳥斯という西アジアの辺境地。心正しく、財産にも家族にも恵まれていた遊牧民の族長約伯が、一夜にして愛する子供たちも財産も、ことごとく失ってしまうところから、この物語は始まります。自らも重い皮膚病をわずらい、陶器の破片で体の膿を掻き出しながら灰の中に座り込む約伯。そこに三人の友人と一人の若者が尋ねてきます。約伯のあまりの変わりように友人たちは動揺して悲しみ、またかける言葉もなく、七日七晩、四人は約伯と共に地面に座し続けます。

 悲惨な状況の中でも天を恨むことなく、深く沈黙していた約伯でしたが、しかし友人たちの眼差しの中で、突然大地の底からわきあがるような悲痛な声を上げ、そして、天と自らに向かって激しい怨嗟の言葉を吐きはじめます。

 我が生まれし日 亡せよ
 男子(おのこ)胎に宿れりと言ひし夜も亦然あれ
 その夜は暗くなれ

 その夜の晨星は暗かれ
 その夜には光明を望むも得ざらしめ
 東雲の目蓋を見ざらしめよ

 何とて我は胎より出でしや
 如何なれば(母の)膝ありて我を接(う)けしや
 如何なれば乳房ありて我を養ひしや

 我 かの荒墟を自己のために築きたりし世の君達・臣達と供にあり
 かの黄金を有ち 白銀を家に充たしたりし牧伯達と供にあらん

 また 人しれず堕りたる胎児のごとくにして 世に出でず
 また 光を見ざる赤子のごとくならん

 彼處にては 悪しき者 虐遇を息め
 倦憊れたる者 安息を得(う)

  ……

 それ全能者の箭(や) わが身に入り
 わが魂神 その毒を飲めり
 上帝の畏怖 我を襲ひ攻む


 そして天にむかい、また自らにむかって問いかけます、


 人間とは何か。(約伯書七章十七節)



 さまざまに理由を掲げて約伯の境遇を説明しようとする友人達を、
『わが兄弟、わが望を充たさざること渓川の如し』としてことごとく退ける約伯の言葉には、楚辞に記された春秋戦国時代の屈原の詩のような、鬼気迫るものがあります。また、存在の不条理さと真正面から向き合い、絶望しているかのようであって、しかしその中で激しく道を問う約伯の姿に、私は、『朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり。』といった大聖孔子と同じ気迫をさえ感じます。

 約伯と四人の長い問答の後、突然、大風の中に上帝(shang-di 中国語訳での神)が現れ、物語は一挙に終幕を迎えていくのですが、上帝が現れる直前の五人を、今回は絵にしてみました。

 
『人間とはなにか。』という約伯の言葉に触発され、描き始めましたが、主題のもつ深さに比べて、やはり私の力量不足を痛感せざるを得ませんでした。

 
追記

 「日本人なのに、なぜ聖書の題材など描いたのか。」と、よく知人に言われます。
 古代西アジアの研究で有名な三笠宮崇仁殿下は、聖書について「初めは文明を誇る白人がなぜこんなものを信じるのかと笑ったが、聖書が歴史的事実と知ったとき、聖書から離れられなくなった。」と語られています。
 形而上的真理や神学を大上段に構え持った基督教の聖書解釈(特に旧約解釈)は、朱子学の論語解釈のように時に窮屈で、時に人間の実感から大きく逸脱しているようにさえ思えます。また、多神教対一神教の対立構造を持って、聖書の中に恣意的に不寛容さや否定的見解を導き出そうとする昨今の日本人の姿勢にも、私は疑問を感じます。

 三笠宮殿下の言葉に、私は、聖書という書物を読み解く一つの大切な鍵があると思っています。初めに解釈ありき、ではなく、まずはあるがままに読む。そうすると、そこに私たちと同じ人間の歴史、 苦悩や喜び、その足跡が見えてきます。そしてそこではじめて、たとえばこの約伯記の「人間とは何か。」という問いかけが、切実に、洋の東西を問わない、人類に共通する普遍的な問いかけとして、胸に迫ってくると思うのです。

 西洋や東洋、民族や宗教といった、人の生み出した「概念」を一時頭から捨て去ってみて、眼中より梁木を捨てて虚心坦懐に先ずはあるがままに見る。これは、私の座右の銘です。なかなかそうはできずにいるのですが‥‥‥。



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